協会けんぽ

協会けんぽ大阪支部から案内が届いていました。

3月分(4月納付分)から保険料率が変わり
健康保険料 10.22%
介護保険料 1.79%
となります。

両方足すと12.01%ですが、会社が半分負担しますので従業員が払う折半分は6%ほどです。これに厚生年金保険料の折半分9%がかかり、健康保険料と年金保険料で15%となります。

これに所得税が10%ほどと市民税・府民税がかかってきますので負担は3割程度。もっともウチのような一人会社の場合は折半といっても実質的には自分で会社分を払うことになりますので12.01%+18.3%(厚生年金保険)=30.31%で、もろもろ合わせると4割を超えています。

織田信長が永禄11(1568)年に六角氏の所領を手に入れた時、収穫量の1/3を年貢と定めたので信長が支配した他の土地も同様に3割程度が年貢負担だったようです。江戸時代の年貢は五公五民といわれますが実際は隠れ田などもあり三公七民ぐらいだったというのが定説ですので、4割を超える負担になると徳政一揆が起きそうですなあ。

将軍山城

将軍山城
将軍山城

250段の階段を上がると狸谷不動院がありますが、狸谷不動院のさらに奥に山道があり、山道を登りきると将軍山城(北白川城、瓜生山城)があります。

幸龍大権現の社がある所が主郭跡で、付近は京都一周トレイルコースにもなっており、ハイカーや山道を走っている人がたくさんいます。もっとも山道からはずれて城巡りをしている人は皆無です(笑)。将軍山城には尾根沿いに、たくさんの郭があり、また付近には他に5つの城がある城塞群になっています。

■有名武将オンパレードの将軍山城
将軍山城を造ったのは細川高国で近江から京都へ攻め入る拠点として築きました。細川高国が大物崩れ(尼崎駅の手前に大物駅があります)で自害すると、隣にある東山新城と共に細川晴元が城を奪います。細川晴元といえば先日の「麒麟がくる」で三好長慶を襲っていた人物です。

それ以前に細川晴元と第12代将軍足利義晴が対立するようになり足利義晴が将軍山城を大幅に修復した記録が残っています。その頃は晴元の家来だった三好長慶軍が城攻めをしています。信長の時代には信長包囲網となった志賀の陣で、明智光秀が将軍山城に入って数カ月、延暦寺を牽制していました。

狸谷山不動院

狸谷山不動院
狸谷山不動院

詩仙堂から坂をひたすら登っていくと狸谷山不動院の入口があり、ここから250段の階段が待っています。50段ごとに狸の置物が置かれて、あと何段あるかを明示しています。えっちらおっちら登ると、ようやく狸谷山不動院へ。京都の街が一望できます。

ここには滝があり、剣豪・宮本武蔵が滝行をしたと伝わっています。本堂は懸造りになっています。懸造りとは清水の舞台で有名ですが、崖などの上に建物を長い柱と貫で固定し,床下を支える建築方法です。

秀吉時代の大坂城では千畳敷がこの懸造りで造られていました。大坂城天守閣の模型で見ることができますが当時の人は驚いたでしょうね。伊達政宗時代の青葉城(仙台城)にも大きな懸造りがありました。

桑名商工会議所へ

桑名商工会議所
桑名商工会議所

桑名商工会議所で行われた経営発達支援計画推進会議に出席してきました。

会議の外部委員を担当していますが、桑名商工会議所はとっても熱心で年2回、外部委員5名に専務理事以下、経営指導員8名が参加し推進会議を実施しています。今年度は5年計画の4年目で目標に対して、どれぐらいで推移しているかなどの報告があり討議しました。

特徴として創業塾の参加者が増え、しかも女性が6割をしめています。女性起業家グループが桑名にあり、そちらのクチコミ効果が高いのと桑名市の広報に入れてもらったことで集客に貢献したようです。

一乗寺下り松

一乗寺下り松
一乗寺下り松

一乗寺のあたりには平安中期から南北朝にかけ一乗寺という天台宗の寺がありました。1335年、南北朝の戦乱で、北朝方の細側軍が一帯に火を放ち、一乗寺も焼失します。その後、再建されず廃絶し、地名として残りました。

一乗寺で有名なのが一乗寺下り松。剣豪・宮本武蔵が吉岡一門数十人と決闘を行ったという場所です。坂を登ったところに八大神社があり、立ち寄った武蔵は参拝しようとしましたが、「我神仏を尊んで神仏を恃まず」と意を決して神社に祈ることなく決闘の場に向かいます。吉川英治の「宮本武蔵」でも名場面として出てきます。

もっとも町道場である吉岡道場が実際にあったのは堀川一条だったので、下り松の決闘は一乗寺ではなく、一条だったという説があります。

詩仙堂

詩仙堂
詩仙堂

叡山電鉄・一乗寺駅からずっと東に坂を登っていくと詩仙堂があります。江戸時代の文人・石川丈山の山荘跡です。

石川丈山は家康に仕える三河譜代の武士で、大坂の陣などにも出陣していましたが抜け駆けがとがめられ浪人。紀州の浅野家家臣にもなりましたが、引退して東山に詩仙堂を建てて終の棲家にします。もっとも鷹が峰の本阿弥光悦らと共に、洛中の監視をしていたとの徳川幕府スパイ説もあります。

詩仙堂で有名なのが庭にある鹿威し(ししおどし)。コーンと庭に響く音がいいですねえ。

比叡(叡山電車)

比叡
比叡

出町柳駅から出ているのが叡山電車。東山の山城を巡るのに使っています。

出町柳を出ると宝ヶ池で分かれ八瀬遊園(今は八瀬遊園がなくなり八瀬比叡山口駅)と鞍馬へと向かいます。京福時代は鄙びた電車でしたが京阪の子会社となり、電車にも投資され、インバウンドの影響もあって賑わっているようです。

写真は観光用車両「ひえい」で、窓も丸いお洒落な電車です。普通料金で乗れます。

電子証明書の更新

コロナウイルスの影響で午後の仕事が中止(順延?)になったので家でたまった仕事をこなしております。来週、よろず支援拠点で行うMOBIO(荒本)でのセミナーも中止になったようで、今朝、コンテンツを作っていたのに(笑)

マイナンバーカードの電子証明書がもうじき期限切れで来週、MOBIOへ行くついでに隣の東大阪市役所へ寄ろうと思っておりました。セミナーが中止になったんで、空いた今日にしようと荒本の東大阪商工会議所へ行ってきました。更新なんで前回設定したパスワード(秘密鍵)などを入れなおすぐらいで、すぐに終わりました。

ついでにMOBIOの取引振興課によると群馬での商談会が中止になるなど、こちらもコロナウイルスのいろいろな影響が出ているようです。

千草忠顕

水飲対陣碑
水飲対陣碑

京都一周トレイルから雲母坂城へ行く途中に水飲対陣之碑があります。

湊川の戦で楠木正成が討死し、京都へ迫るなか後醍醐天皇は比叡山に移ります。東坂本(琵琶湖側)を新田義貞と名和長年が守り、西坂本(京都側)を後醍醐天皇の皇子・尊良親王と、千種忠顕が守りました。千種忠顕は武芸に秀でた公卿で、後醍醐天皇が隠岐島に流罪になると随従し、ずっと後醍醐天皇を助けた人物です。

■水飲対陣
尊氏の弟・足利義直の軍勢が西坂本に攻め寄せ、雲母坂で激しい戦いとなります。水飲対陣之碑があるあたりは音羽川のせせらぎが聞こえる場所で、水飲という名前がついたようです。足利義直が陣を構え、千草軍を目指して三方から攻めあがりました。千種軍は全滅し、忠顕も討死します。

■菰野の千草城
御在所岳の麓にある菰野に千種城があります。千種忠顕は三重郡二十四郷を与えられており、息子の千種顕経によって千種城が築かれたと伝わっています。

修学院・雲母坂城

修学院・雲母坂城
修学院・雲母坂城

一乗寺城から京都一周トレイルコースに入って山をいくつか超えると雲母坂へ向かう登山道があります。この登山道を進んでいくと雲母坂があり、ここに山城がありました。修学院離宮の脇より比叡山山頂に至る古道で、この古道を登ってくる敵を撃退するための城でした。

それほど大きな山城ではありませんが、道を効果的に攻撃できるように郭が並びます。雲母坂から一乗寺城へ回り込めるために、雲母坂を防衛する必要があり一乗寺城と同時期に造られたようです。ですので造ったのは浅井・朝倉連合軍でしょう。

■志賀の陣
三好三人衆を攻めていた織田信長に突然、襲い掛かってきたのが石山本願寺。摂津で動けなくなった信長に対して浅井・朝倉連合軍が京都へ向けて動きます。迎え撃ったのが宇佐山城の森可成(森蘭丸のお父さん)で討死しましたが宇佐山城は守られました。

浅井・朝倉連合軍は山科まで進軍して京都を狙います。知らせを受けた信長は摂津戦線から撤退して京都へ向かうと浅井・朝倉連合軍は比叡山へ後退します。この時に使われた陣城の一部が一乗寺城と雲母坂城だったようです。

信長は比叡山に対して味方につくか、ダメなら中立を守ってほしい、浅井・朝倉に味方するなら焼き討ちにすると通告しましたが、返事はありませんでした。「麒麟がくる」でもハイライトになる比叡山焼き討ちは志賀の陣が発端となります。