ゆるつなカレッジ

ゆるつな
ゆるつな

昨夜はマイドーム大阪で「ゆるつなカレッジ」。

大阪府中小企業診断協会が「ゆるつなカレッジ」というのをやっていて、参加者資格は、中小企業診断士資格第二次試験合格もしくは養成課程修了後2年以内の診断士フレッシャーズです。若い人が多いのかなと思ったら年代はバラバラでした。

「ゆるつなカレッジ」の目的は診断士活動に関する基本的な情報やノウハウを、講義やワークなどによって学ぶこと。

昨夜は「診断士のスキル」がテーマで4名の講師が登場。「本を売ってもいいよ」という甘い言葉に誘われて登壇してきました(笑)。おかげで「バグは本当に虫だった」も2冊売れました!

早めに終わって飲みに行くのかと思ったら、きっちり21時までやって、中華「はるか」へ移動し交流会。堺筋本町界隈に多い食べ放題・飲み放題のお店です。22時半過ぎまでしっかり飲んで帰ってきました。紹興酒おいしかったですねえ。

1月23日は電子メールの日

1月23日は電子メールの日です。本当は「ふみの日」ですが、古式ゆかしい手紙を送るのが減ってメールが増えたので電子メールの日になっています。
「1(いい)23(ふみ)」という語呂あわせになっています。ですがメールよりもSNSのメッセージでのやりとりが増えているので、そのうちメッセージの日になるかもしれません。

談山神社

談山神社
談山神社

中大兄皇子&中臣鎌足が起こした蘇我入鹿暗殺事件。昔は大化の改新と習いましたが、今は乙巳の変と呼ばれています。乙巳とは丙午(ひのえうま)と同様に干支の組み合わせのことで645年を指します。

法興寺(現在の飛鳥寺)で蹴鞠があった時、中大兄皇子の靴が脱げ、それを拾って差し出したのが中臣鎌足。これが縁となって2人はクーデタに邁進していきます。密談を行ったのが飛鳥の東側にある多武峰という山々です。

中臣鎌足が亡くなってから、長男の定慧和尚が留学中の唐より帰国し父の由縁深い多武峰に墓を移し、十三重塔を建立しました。これが談山神社(たんざんじんじゃ)となります。入山料は一人600円で社殿には多武峯縁起絵巻が表示されています。教科書で有名な蘇我入鹿の首が飛ぶシーンを久しぶりに見ました。

高鴨神社

高鴨神社
高鴨神社

佐味城の麓にあるのが高鴨神社という、とっても古い神社で全国のカモ(鴨・賀茂・加茂)神社の総本社です。鴨氏一族の発祥の地になっています。

高鴨神社の祭神は大国主命の子供の味鋤高彦根命(あじすきたかひこねのかみ)で迦毛大神(かものおおかみ)ともいいます。大物主神(大国主命)の子孫である大田田根子の孫である賀茂積命が奉じて、代々賀茂(鴨)氏が祭祀にあたりました。

この大田田根子という人物がなかなか不思議で、崇神天皇の時代に疫病や災害がつづいた時,天皇の夢にあらわれたのが三輪山の大物主神。疫病は自分の仕業であること、自分の血を引く大田田根子に祭られれば収まると告げます。そこで大田田根子を祭主にすると疫病がやみました。この大田田根子が鴨氏、三輪氏の祖となります。

神武東征によって天津神が大和を支配したはずが、大国主命は出雲神社の祭神でもあり国津神の代表です。それが大和のど真ん中にある三輪神社の祭神でもあり出雲の影響が色濃く残っています。この出雲なんですが桜井から東へ少し行った所に出雲があり、相撲の創始者である野見宿禰はこの出雲の出身と言われています。

佐味城

佐味城
佐味城

御所の鴨神にあるのが佐味城。

1567年(永禄10)には筒井方の城だったようです。この年、三好三人衆・筒井順慶連合軍と松永久秀が戦っていましたが松永久秀は押され気味で三好三人衆と筒井連合軍が陣取っていた東大寺を攻め大仏殿が燃えてしまいます。大仏が燃えたのは松永久秀のせいじゃなかったんですが信長が家康に松永久秀を紹介する時、三悪事の1つとして大仏を焼いたことにされてしまい世間に喧伝されてしまいました。「麒麟がくる」でもこのシーンが出てくるでしょうね。

劣勢の松永久秀に味方するため、河内守護・畠山高政と根来衆が大和へ侵攻し、筒井方であった佐味城を攻めましたが、反撃に遭って撤退したようです。

【とっても変わった山城・佐味城】
佐味城は金剛山山麓に張り出した台地状の尾根を利用して築かれた城ですが、城への道が分からない。山道があったので進んでみましたが途中で藪だらけに、とりあえず地理院地図アプリを見ながら、尾根の頂上を目指します。早い話が直登です(笑)。息も絶え絶えで、ようやく土塁にたどりつき高さ10メートルほどの土塁を登ると城の中に入れました。

佐味城は全国的に見ても一風変わった縄張りになっています。中心になっている郭が一番西側にあり、あとは碁盤の目になっていて整然と区画された土塁囲みの土壇が並び、家臣の屋敷跡だったようです。四日市に保々西城があるのですが、少し似ています。この屋敷跡のような郭がたくさんあり、しかも一番外側は高い土塁や堀で防御されています。ただ中央の大手通りみたいなところはまっすぐで城の外にもそのまま続いていて、ひょっとすると寺院跡を城に造り替えたものかも分かりません。

風の森

風の森
風の森

御所に1719年(享保4)創業の油長酒造株式会社という造り酒屋があります。「風の森」というお酒を造っており、通常の日本酒は、しぼった火入れして加熱殺菌しますが、風の森は生酒をそのまま販売しています。

実現するにはタンクや微生物管理など大変ですが、味わいがよくファンが多いお酒です。油長酒造さん、昔は一升瓶も出していましたが、今は720mlだけの販売になっています。720mlだと、すぐに空けてしまうので、あまり買っていません(笑)。

さてお酒の名前になっている「風の森」は同じ葛城・鴨神にある地名です。名前の通りに森を風が吹き抜け、揺らします。峠にあるのが風の森神社で、祭神は「志那都比古神」という風の神様。風の森は大和と和歌山を結ぶ途中にあり、古代の道路跡も見つかっています。

降幡神社

降幡神社
降幡神社

令和の元となったのが大宰府長官である大伴旅人の梅花の宴。大伴氏とは古代の名族で大王の親衛隊的存在でした。摂津や河内の沿岸が本拠地ですが、富田林に大伴町という地名があり、大伴の支族が住んでいたのではないかと言われています。

■降幡神社
Googleマップで石川河原城のすぐ近くで見つけたのが降幡神社跡という小さな祠。案内に「大伴氏の祖神・天忍日命を祀る由緒ある神社であったが、明治の末、一須賀神社に合祀された。古代この地方に住んでいた大伴氏の支族が、その祖神を祀ったのであろう」と書かれています。

天忍日命(あまのおしひのみこと)とは天孫降臨の時に武装して天孫の先払いをした神様で大伴氏の祖です。天忍日命を祀っている神社は全国的に少ないので、降幡神社は大伴氏関係でしょう。

降幡神社は合祀されたため、跡地となっており朽ち果てた小さな祠が残っています。ただ石川といえば蘇我氏の土地で有名なのが乙巳の変に登場する蘇我倉山田石川麻呂です。中大兄皇子と中臣鎌足に協力しますが、最後は陰謀で山田寺で自害させられます。山田寺の東回廊が発掘調査でそのまま出てきて飛鳥資料館に展示されています。

石川は蘇我でもあり、大伴でもあり不思議な土地です。

被災者生活再建支援法

小田実
小田実

あれから25年。

当時、京都の専門学校で教員をしており地震の時はトイレに入っていて、「地震だ~あ!」と叫ぶだけでした。だって出るに出られないし。

阪神大震災で家を失った人達などへの公的支援がなかったことから小田実さんらが中心になってできたのが被災者生活再建支援法です。私有財産に公費を投じることはできないという風潮を変える動きとなりました。

しかし江戸時代には再建の仕組みがあったんですね。江戸は火事が多く、幕府から町屋の間口の間数に応じて下賜金が出て、これが再建資金となりました。オランダの商館長が泊まった長崎屋の場合、3500匁(700万円ほど)が出たようです。ただし町屋の大家が対象で借りていた庶民は対象外になります。藩ごとに政策が違っていますから江戸以外に同様の制度があったかは不明です。

知的生産の技術研究会・関西では阪神淡路大震災があった1995年の5月,小田実さんに「被災の思想」というタイトルで講演してもらいました。まだ被災者生活再建支援法などの草案前で公的支援などの必要性などを訴えておられました。

石川河原城

石川河原城
石川河原城

Googleマップを見ると城跡の地図がよく出るようになりました。もっとも場所が間違っていることもあります。白木陣屋から富田林駅までの帰り道を調べていた時に見つけたのが石川河原城です。行ってみたら城の遺構は残っていませんが川沿いの台地の上で道路からは5mほどの高さがあり城を造るには適地でした。

太平記には石川城として登場しています。「越後守師泰(高師泰のこと)は、楠退治の為に河内国に下て、石川々原に向城を構て居たりけるを...」ということで楠木勢を攻めるための付城(向城)を造っていたんですね。

白木陣屋

白木陣屋
白木陣屋

持尾城から富田林駅に行く途中にある白木陣屋跡へ寄ってきました。

■伊勢神戸
鈴鹿に桓武平氏の流れをくむ神戸氏がいました。鈴鹿商工会議所近くにある澤城を本拠地にしていましたが新たに伊勢神戸城を造って本拠地を移します。やがて織田信長の伊勢攻めが始まり、滝川一益が侵攻したため、織田方と和睦。養子にうけいれたのが織田信長の3男神戸信孝です。本能寺の変の後、神戸信孝は秀吉と対立し柴田勝家が滅んだ後、秀吉によって自刃させられます。

関ケ原の合戦の後、伊勢神戸には一柳氏が入り、その後、天領になった後に入ったのが石川総長です。

■河内へ
伊勢神戸藩の石川総長は万治3年(1658)大坂城番となって役知料1万石を河内石川・古市郡内で加増され、それまでの伊勢神戸の1万石とあわせて2万石となりました。飛地となった河内の所領を管理する為に築いたのが河南町にある白木陣屋です。3代目の石川総茂の時、常陸国下館に転封となりましたが、河内領と白木陣屋はその後も維持され、明治まで続くことになります。

白木陣屋は高台の上に造られ北、東、南に石垣がめぐらされた要害です。ただ草が生繁っていて石垣がよく見えない点が残念。白木陣屋跡は集落になっています。