中野古城

中野古城
中野古城

大阪府よろず支援拠点のお仕事でクラウド会計活用セミナーを富田林商工会で行ってきました。古市古墳群の中にあり、東に行くと二上山で、麓には聖徳太子が眠る上ノ太子があります。駅前からバスが出ています。

セミナーはWヘッダーで前半を担当し、後半は大阪府によるIoT事例のお話でした。IoT事例の時に近くに古墳がないかなと探していると中野古城なるものをGoogleマップで発見。城の情報を探しましたが、何もないですね。富田林の文化財コーナーを見ると商工会議所がある粟ケ池から東へ約200メートルの石川西岸に喜志城跡があったようなので、中野古城は喜志城と連携していたのかもしれません。喜志には東高野街道が通り、ちょっと行ったら河内長野で楠木正成の山城群となりますから城の可能性は高いです。

セミナーと個別相談が終わり、日没までの時間に中野古城まで出かけてきました。台地の縁が城跡になっており、周りは帯郭なのか堀跡なのか分からないものが巡っていました。郭までは切岸になっていて高さは5メートルほどあります。写真の右側が郭跡です。周りには水路があるので、これがかっての堀跡だったかも知れません。

クラウド会計活用セミナー

富田林商工会
富田林商工会

古市古墳群にある富田林商工会でクラウド会計活用セミナー。大阪府よろず支援拠点の仕事です。
会場は2階と聞いていたのですが、探し回っても会場がない。実は1階だと思っていたところが地下の扱いで3階に上がったら会場がありました(笑)。
私の担当分は終わり、今は大阪府商工労働部によるIoTセミナーをしています。
窓からは二上山が見えています。山城登りたいな~あ!

穴山梅雪の墓

穴山梅雪の墓
穴山梅雪の墓

同志社大学・田辺キャンパスからずっと東へ行くと木津川があり、その手前に穴山梅雪の墓があります。

甲斐の武田御一門衆の一人だったのが穴山梅雪。母親は武田信玄の姉で、妻は武田信玄の三女です。手薄となった信玄の本陣に上杉謙信が突っ込んだといわれる第四次川中島の戦いにおいては信玄本陣を守っていました。

信玄亡きあとは勝頼に従うことになりますが織田信忠による甲斐侵攻がはじまると、徳川家康と交渉し、甲斐一国の拝領と武田の名跡継承を条件にして勝頼を裏切ることになります。まあ勝頼は諏訪家を継ぐはずでしたので信玄亡き後は俺だという気持ちがあったのでしょう。

勝頼が滅んでから、信長への御礼言上のため家康と一緒に安土に向かい信長と謁見します。家康と堺を遊覧した翌日に京都へ向かう途中で本能寺の変を知り、逃げる途中で亡くなります。家康は飯盛山、枚方の尊延寺を経て京田辺に入り、普賢寺、興戸、草内のコースで木津川を渡り、宇治田原から伊賀を目指しました。穴山梅雪は家康より遅れて同じコースを行動していたようで興戸から木津川を渡る前に自刃したとも殺害されたともいわれています。

穴山梅雪亡き後に、家康は甲斐に侵攻し、武田の旧臣を傘下にして井伊の赤備えを作ったりして一番得をしていますので、家康が謀殺したという説もあります。また明智光秀軍が家康を探していたので間違えられて殺されたという説もあります。

共和国の砦だった草路城

草路城
草路城

JR同志社前駅を西に行くと普賢寺谷で山城群になりますが、東に行くと平地が拡がっており草路城があります。城跡は咋岡(くいおか)神社境内になっていて、神社の周りを水堀が巡り、境内には土塁の一部が残っています。

「応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱」(呉座勇一 中公新書)がベストセラーになりましたが、とにかく複雑怪奇なのが応仁の乱。天皇だけでなく管領などの各家でも跡目争いが起こり登場人物が多すぎてよく分かりません。この草路城が応仁の乱の大きな舞台となります。

■山城国一揆の舞台
幕府の有力守護だった畠山家では畠山政長と畠山義就が争い、山城国をどちらが支配するかでも争っていました。畠山政長が支配していた草路城を畠山義就が攻め、落城させます。この後、南山城から大和にかけて戦場となり2ケ月ほど続いた時、疲弊した国人と農民が「もう、やってられない!」と起こしたのが山城国一揆。

1485年(文明17年)に南山城(久世郡、綴喜郡、相楽郡)の国人や農民が集まり自分たちで南山城の自治を行うことを決めます。その際、立て籠もったのが草路城とされています。さすがの畠山政長・義就もどうすることもできず、両者とも南山城から引き揚げます。

翌年、国人や農民が宇治の平等院に集まり、国中掟法を取り決めます。南山城は「惣国」と称される自治制となり、つまり共和国的存在となりますが、最終的には帝国軍である織田信長が侵略を迎えることになります。

学べばわかる北前船

Gacco
Gacco

大学・企業が提供する講座を無料で学べるGacco。最近、受講したのが「学べばわかる北前船 一攫千金の夢とロマン、人・モノ・文化の交流史」です。一攫千金というタイトルに惹かれました。(笑)

北前船とは本州各地と蝦夷地(北海道)を往来していた廻船のことで、西廻り航路ができ弁才船と呼ばれる船が行き来していました。各港で商売しながら富を蓄えていきます。「本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に」と歌われた酒田の本間家も、幕末にロシアと渡り合った高田屋嘉兵衛も買積と呼ばれる船主自身が商品を取引して財を蓄えていきます。

北陸の船乗りも多いのですが船は大坂にあるので、北陸から陸路で大坂へ出てから出航するなど、面白い話題がけっこう出てきます。講師と女子大生の掛け合いになっていて毎回、最後に北前船クイズと各寄港地を写真で紹介するギャラリーがあるんですが、けっこう面白いです。

普賢寺

普賢寺
普賢寺

普賢寺(大御堂観音寺)

創建は義淵僧正で、天武天皇の勅願により建てられました。度々、火災に見舞われたようで現在は大御堂だけが再建されています。現在は観音寺という名前ですが古代・中世には普賢寺と呼ばれていました。普賢寺のすぐ横には地祇神社があり、大西氏をはじめとした地侍の氏寺になっていました。

■神君伊賀超え
本能寺の変が起きた頃、徳川家康は堺から京都へ向かう途中にある飯盛山で、本能寺の変を知らされます。本拠地の岡崎を目指すことになり、これが神君伊賀越えです。ルートについては諸説ありますが、飯森山から生駒山地の北側を抜ける尊延寺(枚方)-穂谷ー普賢寺のコースをとったようです。普賢寺からは草内から木津川を渡りました。足利義昭も普賢寺から河内の若江城へ向かいましたので交通の要衝だったようです。

創業塾(鈴鹿商工会議所)

鈴鹿商工会議所
鈴鹿商工会議所

久しぶりに創業塾でセミナーです。三重県よろず支援拠点のお仕事です。

鈴鹿商工会議所・創業塾全4回の3回目で
プログラムは
・「創業時の手続き」松岡コーディネータ(財務会計及び政務知識、創業計画書の作成方法)
・「プロモーションとは」(IT・SNS等を活用した販売促進手法)
・「労務管関係について」社会保険労務士
・「資金計画について」日本政策金融公庫
となっており、三重県よろず支援拠点では前半の2本が対象です。私はITを使ったプロモーションについて話をしてきました。

鈴鹿は、よい天気でとっても暖かいですねえ。久しぶりに津から伊勢鉄道に乗って鈴鹿駅で降り、伊勢神戸城、澤城を見てきました。

普賢寺谷 大西館

大西館
大西館

普賢寺谷の小野垣内遺跡の対面にあるのが大西館。3つの郭をもつ城でしたが開発でほとんど削平され、郭の一部だけが残っていました。戦国時代の城としては珍しく城主が分かる城だったのにもったいない。

1437年に普賢寺が炎上した後、大西志摩守が普賢寺再興のために全国を勧請したという記録が残っています。普賢寺に一番近いところにもあり、このあたりの盟主だったようです。織田信長が侵攻してきた時代は反信長派だったようで織田信長の命令で切腹させられています。足利義昭と信長が仲違いし、足利義昭が宇治の槙島城で挙兵しましたが敗れて河内へ逃げる時に普賢寺谷を通っています。大西備前守敏元は、この時に足利義昭に付き従ったようで河内若江城で討死にしています。

竹屋精肉店 閉店(津市)

竹屋精肉店
竹屋精肉店

商工中金津支店が移転した跡地に建てた竹屋精肉店が閉店していました。

張り紙には昨年11月21日にオープンしましたが閉店したということで1年もたなかったんですね。レストラン営業は続けるともありました。

でっかい精肉のオブジェが店頭にあったんですが朝日屋と伊勢屋の間に割り込んだ形での出店でしたから、難しかったのかなあ。

普賢寺谷 小田垣内遺跡

小田垣内遺跡
小田垣内遺跡

皆さま、お待ちかねの普賢寺谷・城館群シリーズ。今回は小田垣内遺跡です

垣内という地名がついていますので、かって城がありました。他にも内本町のように内がついていると城内を指す場合が多いです。

京奈和自動車道のすぐ横の山の中にあります。隣には同志社大学多々羅キャンパスがあります。近くまで小道があり、ここから郭内に入れるが楽ですね。小田垣内遺跡はけっこう古い時代から使われていたようで室町時代の石仏が土塁の中から見つかっています。

高い土塁と堀切などが見事に残っていました。けっこう大きな郭跡ですので、いろいろな館が建っていたようです。谷の反対側に大西館がありますので、大西関係者の城だったかもしれません。